食べることの意味
先週ふれた、生き物を絞めて口にするということ。さっきまで息をしていた生き物がその生涯を終え、私たちの栄養となる。この当たり前のよう で、実はとてもありがたいことを、ここ東ティモールに来てものすごく実感するようになりました。それは、その「生涯を終える」という部分を、実際に目にす るようになったからだと思います。
肉を食べることを絶つと決めた友人たちに、その理由を聞いたことがあります。きっかけは様々。1つは健康のため。また、自分たちと同じように命あるものを食べることが嫌になったという友人もいました。
食べられないのはなぜ
興味深かったのは、家畜を育てるには、当たり前ですが食糧が必要で、それに充てられる穀物を確保するために、多くの人々の食糧が犠牲になっ ているという理由。もし家畜の数が減れば、つまりは人間が食べる肉の量が減れば、その分穀物の消費量も減り、飢餓に苦しんでいるたくさんの人が救われま す。これを聞いて、今まで何も考えず、好きなだけ肉を食べていたことを考え直し、意識を向けるようになりました。自分が肉を食べることで、同じ地球のどこ かで、ごはんが食べられない人がいるのかもしれない・・・。
無駄がない
でも、東ティモールに来て以来、この考え方が少し変わりました。草の生い茂った場所で思いおもいに草を食んでいる牛。穀物も食べているもの だと思っていたのに、ここで毎年植えられるトウモロコシを食べている牛を見たことがありません。トウモロコシを取り終わった、残りの葉や茎を食べている牛 はいますが・・・。伸びてしまうと刈ったり抜いたりしなければならない雑草や食べられない茎や葉を、彼らは食糧にしているのです。また、豚は何でも食べて くれ、きゃべつの芯やにんじんの皮など台所の残り物を全部引き受けてくれます。誰をも犠牲にしていないではないか、と思いました。
冷蔵庫のない市場で売られるこれらの肉は、その日絞められたものをその日のうちに売り切ります。なので、余分に絞められることはありません。また、自宅に冷蔵庫のないうちがほとんどなので、余分に買うこともないのです。
争奪戦
日本のスーパーマーケットでは、きれいに切りそろえられ、から揚げならもも肉だけなど、用途毎にパックされています。それが当たり前だと 思っていましたが、実際には、どんなにやわらかいから揚げが食べたかったとしても、鶏の足は2本しかなく、家族みんなが同じように同じ部位を食べることは できないのです。人数の多いうちでは、おかずのよそわれた大皿をかき回し、自分の好きな部位を探します。手羽が食べたいなぁと思っても、先にとられてしま えばもうない・・・争奪戦!たまにたった1つしかない頭を、善意で私に残しておいてくれたり・・・。すこし話はずれましたが、こういうところから、単に肉 を食べるということではなく、生き物を食べるということを学んでいるのかもしれません。
連鎖
虫も動物も人間も、命あるもの、何かを食べなければ生きていくことはできません。ずっと昔は、食物連鎖の中で、何かがどこかで犠牲になりな がら循環し、うまく自然のサイクルが成り立っていたのだと思います。それがだんだんとゆがんできているのが今日ではないでしょうか。本来はちょうどよい量 を食べればよいものを、大量に消費することに慣れてしまったり、人々の欲求を満たすために開発が進み、自然のサイクルから外れてしまったり。だからこそ、 肉を食べることで別のところで歪が生じてしまうのです。でも、本当は、限りあるものをちょうどよく消費することを守っていれば、肉を食べることは決して悪 いことではないのかなぁと思います。そして、命あるものをいただくことに感謝すること。
こうして、生きるために食べるということ、それに関わるたくさんのもののことを、娘にも教えてあげられたらと願っています。
2011年11月11日
なっちゃんは、東ティモール人のご主人との間に可愛い女の赤ちゃんに恵まれ(2011年誕生)子育て奮闘中の日本人ママです。当協会の現地通信員でもあります。なっちゃんの見た今の東ティモールをお届します。ご期待下さい。