東ティモール通信 49通目

日本の皆様、こんにちは。だんだんと水浴びがつらく感じなくなってきました。いよいよ乾期の到来です!
さよならカタツムリさん、また雨期に!!

今月は大変な事が立て続けに起こり、体調をこわしてしまいました。日本の方が誘って下さって行く事を楽しみにしていた海も山登りもキャンセルせざるを得ず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。もう若くないので、体調管理には気をつけたいと思います。。

今回のレポートでは、ティモールで私がお母さんと呼び、慕っていたLuciaさんとの別れの話について書きました。


*ティモールのお母さんとの別れ*
「お母さんが死んだ」と電話で伝えられたのは8月末日の朝早くでした。私のティモールでのお母さん-Lusia do Rosario(ルシア・ド・ロザリオ)さん。Com(コム)という村に住み、毎年新年には宿泊させてもらっているお宅のお母さんです(通信29にも登場しています)。享年76歳。最近、以前から抱えていた病気が再発し、ディリで療養中でした。療養中というか、Com村にいるよりも首都であるディリにいた方が、何かが起こった場合病院ですぐに診てもらえため、居住地をディリにうつし、生活していました。
覚悟していない「人の死」を目の当たりにすると、何も考えられなくなります。自分の目で遺体を見るまでは信じない、信じたくない。そう思いましたが、電話口でルシアさんの死を伝えてくれた息子さんが号泣している事実は変えられず、いつの間にか私も電話を握りしめながら床に膝をつき、泣いていました。同時に、あぁ泣き崩れることって本当にあるんだなぁと、遠目から客観的に自分を見ている自分もいました。
Luciaさんと最初に会ったのは、2011年の新年だったように思います。「眉間に皺のある、ちょっと怖い雰囲気のおばちゃん」。これがお母さんの第一印象でした。お母さんの家に遊びに行く回数が増え、印象と違った姿が見えるようになってきました。「あ、お母さんの新しい雰囲気発見!」の瞬間が垣間見えたストーリーがあります。お母さんが飼っている犬、シフォエ(AFMET事務所で飼っていた犬が子どもを産んだので、お母さんのお宅に1匹あげたのです。)は、私が遊びに行くと飛びついてきて私の服を汚します。毎回私の服が汚れるので、お母さんは申し訳なく思っていたようです。その日、お母さんはなぜだか長い木の棒を持って、玄関口に座っていました。シフォエが私に飛びついた瞬間、持っていた木の棒で「バシッ!!」とシフォエを叩き、「やってやったぜ!」の顔で私の方を向いてニヤっと笑いました。その瞬間、私は大爆笑してしまい、お母さんはなにがそんなに面白いのかわからない様子で、眉間に皺を寄せたまま、でも、お母さんも笑っていました。

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↑お母さんと私。ツーショットはこの一枚だけでした。

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↑お母さんに叩かれた犬、シフォエ。元気に育っています。

お母さんは、ファタルク語(ロスパロス特有の言語)しか話しません。読み書きも出来ないので、お母さんの携帯電話には、絵文字と一緒に私の携帯番号が登録されています。一度、どんな絵文字で私の番号が登録されているのか見せてもらったことがありました。なんと、サングラスをかけた金髪の男の人の絵文字。「え、、こんな風にお母さんには見えてるの?」とビックリした事があります。お母さんはまた私の顔を見るとニヤッと笑って笑顔を返してくれました。電話番号を交換してからは、四六時中電話をかけてきてくれるお母さんでした。私が電話を取ると、「どこにいるの!?」といつもなぜか怒り口調で、でも最後には必ず「身体に気をつけなさいね」と言ってくれました。通話は短いし、何を話しているのかわからないこともあったけれど、いつも欠かさず言ってくれていた言葉は、「元気なの?!」「今どこにいるの?!」「気をつけなさいね!」「休みの日には来てね!」そして、「ん~まっ!!(電話越しのチューです。笑。)」でした。
お母さんがかけて来てくれた電話を一度目で取らないと、何度も何度も電話をかけてきました。一度お母さんの旦那さん(私はお父さんと呼んでいます)に頼まれたことがあります。「お願いだから、どんなに忙しくても電話を取ってやってくれ!じゃないと、ずーっと1人で電話に出ない、何かあったのかも…って言っているんだよ。困るよ、本当に(笑)。絶対取ってやってくれ!一度声を聞けば安心するから!」。仕事が忙しいときは、「あ~また電話来てる!また今度取ればいいか…」と思っていましたが(←ひどい…)、それを聞いてからは必ず一度目の電話で取るようにしました。心配してくれているんだなぁと実感できたからでした。
火災の後(2013年9月に事務所兼家が焼失した後)初めて会いに行ったときは、泣きながら私をぎゅーっと抱きしめて、キスをたくさんしてくれました。一緒に水汲みに行ったときは、お母さんの家にあるだけのジェリゲンを私が一人で満タンにしたら、「疲れるからそんなことしちゃダメ!」と逆に怒られました。戦争を生き抜いたお母さんの手は細く、シワシワで、でもあったかくて。手足をKumu(クム:マッサージすること)すると、「いつつつ…」と言いながらも、いつも喜んでくれました。遊びに行ったら必ず「お腹空いてるでしょ?」と、近所のお宅の子どもをお使いに出してビスケットを買いに行かせ、「ご飯も棚にあるわよ!ご飯しかないけど…」と申し訳なさそうに出してきてくれました。眠れない夜に家の外でボーっとしていると、いつの間にかお母さんも傍に来て、何も話さないけど、隣に座って私が家に入るまで待っていてくれました。
そんな、お母さんとの一つ一つの思い出が、湧き出しては止まらないのです。

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↑孫を抱くお母さん。

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↑お父さんとお母さん。「笑って~!!」を言い過ぎて最後怒られました。笑

亡くなる前、お母さんは、ディリで一緒に住んでいた息子さんに言いました。「今は夜中だから、自分が病気だと絶対に子どもたちには言わないで。」と。夜中に子どもたちがディリに来たら、事故に遭う危険性があるためだったのでしょう。お母さんが亡くなったのを子どもたちが知ったのは、翌日の朝でした。最後まで子どもたちを想い、亡くなっていったお母さん。残された子どもたちは、そんなお母さんに対して怒り、今も悲しい想いを抱いています。見送れなかったことが、つらいのです。どんなに危険でも、会いに行って、もう一度手を握って話したかったなぁと思わずにはいられません。
お墓が作られた朝、私もCom村へ行きました。お父さんは私を呼び、お母さんのお墓の前で抱き合い、一緒にえんえん泣きました。お父さんの涙を見たのは、これが初めてのことでした。家に一人になったお父さんを想い、子どもたちが順番でCom村へ寝泊まりに行っています。子どもたちは皆Com村を出て、ラウテン県の中心地であるロスパロスに住んでいるのです(Comからロスパロスまでは車で1時間程)。私は、平日は仕事で行かれないので、時間のあるときの金曜日の夜から日曜日の午後までCom村に泊まり、お父さんのお世話をしています。玄関、台所、水汲み場、家の外にある木のベンチ…。いろんなところにお母さんの面影を探してしまいます。涙がこぼれそうになると、お母さんが怒る!と思い直し、涙を吸い上げます(ほとんどこぼれてしまうのですが…笑)。

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←完成したお母さんのお墓。家のすぐ近くに作りました。

泣いてばかりで仕事がはかどらないので、これはダメだ!と思い直し、たくさん仕事を詰め込んで、思い出す時間がなるべくないようにしています。立ち止まると、涙がとめどなく溢れてきてしまって、どうにもこうにもダメなのです。
私を助け、赦し、愛してくれたお母さん。ただただ、感謝しかありません。そして、やっぱり寂しいです。天国から家族を見守り、どうかどうか、笑ってくれていますように。

2016年9月27日 深堀夢衣