東ティモール通信 No.33

日本の皆様、こんにちは。ロスパロスはまた雨期に入り、毎日、雨が降ってすぐ止んでまた雨…というのを繰り返しています。乾期が待ち遠しい今日この頃です。今は電気が無く、ロウソクの火の下、このレポートを書いています。

4月23~24日、私の東ティモールのお父さんであったアジェさんの一周忌が行われました。その様子と、今後も関係を続けていきたいアジェさん家族と、楽しく過ごした1日の様子を、今回はレポートさせて頂きます。

*アジェさんの一周忌*

大好きなアジェさんが私の前からいなくなって、もう1年が経ちました。早い。その1年の中には火災もあり、土地の返還もあり…アジェさんが一緒 にいてくれたら、きっと、もっと楽しく…というか、そこまで苦しまずに、時間を過ごせていたんじゃないかなぁと思います。アジェさんは、悲しいことや苦し いことを忘れさせてくれる、とっても面白い人だったからです。

アジェさんは、1964年生まれ。享年49歳。アジェさんが11歳のとき(1975年)、東ティモールは、インドネシアによる突然の進攻を受 け、アジェさんを含めたたくさんの人が独立を求めて戦い、ついに、2002年5月20日、「東ティモール民主共和国」として独立を果たしました。その戦い の中で、“生き抜く”ために、いろんな場面で命を紡ぐための交渉を何度もしてきただろうし、家族・友人・家…無くしたものが、本当にたくさんあっただろう と思います。自分の非を認めたら殺される時代を生き抜いたアジェさんは、言い訳も多い人でしたが、たくさんの悲しみを乗り越えてきたからこその優しさを兼 ね備えた人でした。

love-23a

↑アジェさん家族とジャコ島へ。右後ろがアジェさん。中央でピースしているのは、四女のノラちゃん。

love-23b

↑バックパッカーの日本人女性と偶然ティモールで会ったときの写真。アジェさん(右端)中央に立っているのは、次女のジュビちゃん。

アジェさんがAFMETで仕事を始めたのは1999年。当時は髪もたくさんあり、お腹も出っ張っていなかった…と写真まで持って来て説明してく れたアジェさんを思い出します。仕事を開始した99年から亡くなるまで、アジェさんはいつもAFMETを想い、日本から来るボランティアを優しく受け止め てくれました。仕事をてきと~~にやるため、イライラし、怒り…それでも、やっぱり私はアジェさんが大好きでした。卵のように丸い頭を持っているアジェさ んを、私は「たまご~!」と呼び、ときにはまん丸いアジェさんのお腹をさすって、「このスイカが食べたい…」とふざけ、よく笑い合っていました。アジェさ んとの面白いエピソードを話し出したらきりがないほどです。

love-23c

↑4月23日、一周忌の様子。寝ずに過ごして霊を弔います。

love-23d

↑アジェさんの自宅内。アジェさんの遺品。

一周忌が行われた4月23・24日は、仕事を休ませてもらい、アジェさんの家族と一緒に、親族を迎えるための準備をしました。アジェさんを思い 出しては涙し、笑い、感情の起伏の激しい2日間でした。親族一同が集まり、共に食事をする際、AFMETの理事長から家族に宛てた手紙が読まれました。手 紙には、これまでアジェさんがAFMETに対して行ってきてくれた事柄に対する御礼と、家族を勇気づける文章が書かれていました。私が代わりに読むように 言われていましたが、涙が止まらないために読むどころではなく、急きょ現地代表に代わってもらいました。その手紙が読まれている最中、私はずっとアジェさ んの事を思い出していました。どの場面でもアジェさんは笑っていて、だから余計に寂しくて、切なくて、涙が止まらなかったです。

翌日は花束を持って、お墓まで歩いて行きます。参加者が多く、道路では走行中の車を一旦止めてもらわなければならないほどでした。家族が先頭を 歩くのですが、子供たちがなかなか出てきません。家の中からは泣き叫ぶ声が聞こえます。現地の言葉(ファタルク語)で言っているために、最後まで聞き取る ことが出来ず、横で私の手を握ってくれていた知り合いに、何と言っているのかを訳してもらいました。「子供たちは、この一周忌が終わってしまうことを怖 がっているみたい…。誰が自分たちを養っていくのか、お父さんを通して知り合った人たちも、もうここを訪れなくなる。って言ってる…。」伯父さんによって なだめられ、外に出てきた子供たちでしたが、私はその言葉を聞いて、どんなに忙しくても、定期的に家族を訪れることを心に誓いました。

love-23e

↑家からお墓まで行くところ。アジェさんの遺影を抱えて一番前に立っている子が、6番目の子供、エロニアちゃん。

love-23f

↑アジェさんのお墓。1人ずつ花束を置いていく。お墓の横で悲しそうに立っているのが、奥さんのリナさん。

アジェさんの子供は7人います。また、養子として育てている子供は2人。合わせて9人の子供たちを、今後どうやって育てていくのか。不安になる のは当然のことです。奥さんは身体が弱く、働きにいけるような身体ではありません。一番上の子(リアちゃん)は、なんとか職を見つけて働き始めています が、ここロスパロスで得る給料は、家族を養うには程遠い額です。次女であるジュビちゃんは、現在高校生ですが、卒業後の来年1月から、イギリスへ出稼ぎに 行くことを決めました。残される子供たちのことを考えると、何とかしなければ…と思わずにいられません。

“人に忘れられたとき、人は死ぬ”。これは、私の好きな漫画「ONE PIECEの中での名言ですが、この地で出会い、私を自分の子と呼んでくれたアジェさんを、アジェさんと共に過ごした時間を、私は一生忘れません。私の心の中で、アジェさんはずっと生き続けます。

5月21日が長男であるアニト君の誕生日だったため、プレゼントを持ってアジェさんのお宅へお泊りに行って来ました!アジェさんの生前に一度、 泊まりに行くと言っていたのに急きょキャンセルしなくてはいけなくなってしまい、今までアジェさんのお宅に泊まったことが無かったのです。丁度、ディリに 出張で来ていた日本人の方が、バスに乗ってロスパロスまで遊びに来てくださったので、アジェさんの家族も連れてジャコ島に行くことを決めました。アジェさ んが亡くなる数日前にも、家族を連れて遊びに行ったジャコ島。家族の皆にとっては、お父さんとの思い出がたくさん詰まった島です。特に奥さんには拒まれる のではないか…と心配していましたが、悩みに悩んだ末一緒に行くことを了承してくれました。

love-23g

↑一年間身に着けた喪服などは全て燃やします。

love-23h

↑アジェさんとのツーショット。大好きな写真です。

奥さん、私と末っ子のエリアちゃん、お客さん、エロニアちゃん。  ジャコ島から見ると、ティモール島はワニの顔みたいです。

子供たちが海で遊んでいる様子を見ながら考えたのは、この繋がりをどう続けていくか、です。はじめはものすごくやる気がある。やるぞ!と心に誓 うのは良いけれど、いつか薄れてしまう繋がり、関係性、想いや、やる気ってありませんか?人と人との繋がりって一体どうやって維持しているだろう?ふっと そんなことを考えました。自分と家族。自分と他人。自分と組織。繋がりは見えない。糸でもあって目に見えれば良いけど(太さとか薄さとかで)、心が繋が るって難しい。大事なのは、繋がりたいか繋がりたくないかという気持ち。なんと単純な答え!でも、それくらいしか自分の中で答えを出すことは出来ませんで した。自分のいる環境も関係があるけど、まずは繋がりたいっていう想いがあるだけで、心配してみたり、心を寄せてみたり、突然でもいいから、今どうして る?って聞いてみることが出来る。それって自分がされたら、嬉しいんじゃないかな?と思いました。アジェさんの家族と繋がりたいという気持ちは、これから も薄れない。だから大丈夫だな!と再確認した、ジャコ島への楽しい旅でした。

27/May/2014

【 筆者紹介 : 深堀夢衣さん 】
深堀さんは、AFMETの現地事務所代表。
愛くるしく逞しく、どこまでも人々に優しい女性。
AMR(アマゾネスめひリアリダデ)は、そんな深堀さんの愛称!
みんなの夢を実現するため明るく力いつぱい頑張っています。